最近、社長の発言で「評論家は要らない」と云う文言を、しばしば耳にします。
では、「批判する」「批評する」とは、どのようなことを言うのでしょうか。辞書には、多少の異見は有りますが「対象物(人)の価値・善悪・優劣などを評価・判定すること。」と有ります。
しかし、評価・判定するための基準は何か、また何処に有るのでしょうか。
その基準は、評価・判定する個人の考え方や知識、経験に依って立つと云う、極めて曖昧な物差しが判断基準であり、単に世論を代弁して評しているに過ぎないことも多々有るように、私には思われます。テレビで御馴染みの討論会などは、相手の欠点ばかりを論い、論戦は批難・悪口に終始し、非生産的な発言に陥っています。
従って評価に当たって心掛けるべきは、対象物(人)を先ずは認め、肯定することからしか、始まらないのではないか。欠点は見方を変えれば長所であり、長所はまた欠点でもあると云われます。十人十色・無くて七癖・馬の耳に念仏・藪から棒・・・・・
また実例を挙げれば、小説の巻末にある解説(評論)では、筋書きの面白さや作者の長所ばかりが記されています。所謂「よいしょ」では有りませんが、良い面も評価する。しかし現実は、なかなかそうは行きません。
冒頭に書いた様に、評論することは「対象の価値・善悪・優劣などを評価・判定すること。」であり、所謂「けなす」ことに評論が偏重され過ぎていないでしょうか。その結果として、建設的な評価・判定に結びついて行かない。当社で具体例を挙げれば、私を含めて枚挙に暇はありませんが、それを言うと角が立つので言わないのである。
何の事はない、このブログも其の一例でした。