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「お節介の薦め」

2017年5月19日
昨今は「お節介」と云う言葉そのものが、余り使われなくなりました。しかし私が高校生位までは、近所の叔母さんや商店の親父さん達に(言われた本人にとっては、図星だけに)気に障ることを度々言われたものです。最近聞いた、40年程前の実際に有った昔話が印象的なので、ここに紹介します。ある女性が、子供と電車に乗っていました。向かいの席に座っていた年配の女性が、繁々と自分の方を見ていました。すると突然その女性が彼女に、こう言いました。「まだ貴方も御若くて、子供さんも小さいのに、何が有ったか知りませんが、早まったことをしてはいけませんよ。」と。彼女は突然のことで、何のことか判らずにいました。少し考えて、或る事に気付きました。それは、彼女が数年前に甲状腺癌を発症して、首に切開手術の傷跡が有ったのです。今の手術であれば、術後に大きな傷として残らないでしょうが、昔は目立つ傷痕が残ったのです。この話を聞いて、私は素晴らしい「お節介叔母さん」の話だと思いました。今だったら、こんな会話が地下鉄で有り得るでしょうか。叔母さんは、彼女と子供の将来を考えて、止むに止まれず彼女に忠告したに違いありません。
以前は結婚についても、「仲人さん」という、叔母さんが居たものです。見合い写真なるものを持ち、結婚適齢期の双方を仲介して、結婚話を纏めようと奔走するのです。上手く結婚話が纏まれば、仲人として結婚式に出席し、結婚後も何かと二人の面倒を見ることに生甲斐すら感じていました。二人に離婚話が出ようものなら大変です。何とか二人の離婚を阻止すべく、粉骨砕身行動します。従って二人は、現在のように簡単には離婚ができません。今は簡単に離婚をし、其れを日常的なことと見ている風潮があります。残念なことです。
やっと本題に入ります。「お節介」には「要らぬお節介」と「相手を心から気遣うお節介」が有ります。私が考えている「お節介の薦め」は、当然ですが後者のお節介です。最近は個人の責任或いは個人の自立が叫ばれる余り、他人のことに口出ししない、干渉もしないことが良いことだと云う雰囲気が有ります。そうした生活習慣が蔓延した社会では、結果として他人のことには無頓着になり、相手の気持ちや立場を考えた行動が、とれなくなります。集団生活が不可欠である生物(人間)にとっては、生きて行く上で大きな欠点となります。(シリアや紛争地域で生活している人達のことを想像して見て下さい。一人で生き延びるより多数である方が、断然有利です。)
私達の仕事上での生活態度も、同様な結果をもたらします。「お節介」は、コミュニケーションの大切な手段のような気がします。相手を尊重した「お節介な発言」や「お節介な行動」を積極的に取っていきましょう。相手のことを心から慮ったお節介は、感謝されこそすれ、余計な(出過ぎた)こととは思われない筈です。もっとも、「ボランティア活動」と「お節介やき」は行動する側に、心身の両面に少し余裕がないと難しいかも知れません。
しかし、私には何時もの通り、自分のことは棚に上げ易いように、飛騨の匠が造った、頑丈な(しかも特大な)棚が用意されていますので、言いたい放題なのです。